「明治維新と吉川家 激動の時代を牽引」
吉川経幹公は幕末の動乱期に長州藩の国事周旋に従事し、新たな時代の幕開けに貢献した人物です。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの敗戦により出雲から岩国に移った吉川家は、幕末期を迎え、経幹公が当主となります。経幹公が16歳で家督を継ぎ、まず初めに行ったのは、藩士子弟のための藩校「養老館」の創設でした。幼いころから文武共に優れた才能を発揮していた経幹公は、人材育成以外にも歴史への関心が高く、吉川家の家譜編纂事業にも着手しています。
長州藩が尊王攘夷の方針を掲げていく中、長州藩主・毛利敬親公の篤い信頼を受けた経幹公は国事周旋に尽力しますが、その中でも宗家である毛利家のためにならないと判断すれば、藩主の意見にも反対するような芯の通った人物でもありました。経幹公の誠実な人柄は、征長軍の参謀であった西郷隆盛や桂小五郎などからも信頼を得ますが、明治という新たな時代を見ることなく、病魔により38年という短い生涯を終えました。
経幹公の嫡男である吉川家29代当主経健公は、藩営の岩国英国語学所の設立へ寄与し、廃藩置県により東京に移った後も、生涯において岩国の育英事業や災害への援助を行いました。経健公の弟・重吉公は、13歳の時に岩倉具視遣欧使節団に加わり、25歳でアメリカのハーバード大学を卒業した後、井上馨の熱心な勧誘により、外交官となりました。外交官を辞した後はドイツへ留学していましたが、兄である経健公を援けるため分家を創設し、その後は貴族院議員として政界でも活躍しました。経幹公の没後も、息子たちは岩国の繁栄の為に尽力し、現在へと続く岩国の文化の根幹を作り上げました。
本展示では、経幹公ゆかりの品や事績を辿る史料を中心に紹介しています。短い生涯ながらも、多くの功績を残した吉川経幹公の人生を、本展示にてぜひご覧ください。