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新展示「吉川家と錦帯橋」展開催

今年は、岩国藩主・吉川広嘉公が錦帯橋を創建して350年の節目にあたります。
本展では、藩庁を横山に決定した広嘉公の祖父・広家公を中心に錦帯橋創建に至った経緯を館蔵史料でご紹介しています。
10月26日(木)からは、国宝「太刀 銘為次(狐ヶ崎)」の展示も始まりました。


吉川家は藤原南家の支流で、駿河国入江庄に住んで入江氏を称した維清3代の孫、入江景義の嫡男経義(つねよし)公が、入江庄吉川(静岡市清水区)に居館を構えて吉川と称したことが始まりです。当館には国指定重要文化財「吾妻鏡」を所蔵しており、その吾妻鏡の中で「吉河」または「吉香」の名前で登場します。

 2代友兼(ともかね)公の時には、文治5年(1189)の奥州征伐や建久4年(1193)に行われた富士の巻狩に「吉香小次郎」の名前で参加していることがこの吾妻鏡の中で確認できます。

 そして正治2年(1200)正月20日、鎌倉幕府の有力御家人であった梶原景時一行が幕府に叛き京都へ向かう途中、駿河国清見関の狐ヶ崎という地にて友兼公が景時の三男・景茂を討ち果たしたしました。この時友兼公が佩用していた太刀こそこの「銘 為次」です。吉川家はこの戦いの地に因んで太刀に「狐ヶ崎」と命名し第一の宝として代々大切にしてきました。

 吾妻鏡の中で梶原景時が友兼公について駿河国一の勇将と評価していたという記述があります。

国指定重要文化財「吾妻鏡」(吉川本)

 ここの赤で囲っている部分がその箇所です。

 「梶原景時が『吉川友兼は駿河国一の勇将であり、もし自分が密かに上洛を企てることがあったら、この男の館を無事に過ぎれば、恐れる者はない』と言っていたという噂があった」という内容です。

 友兼公はこの戦いの翌日に亡くなってしまいますが、鎌倉幕府から3代経兼(つねかね)公には梶原景時の所領であった播磨国福井庄(現在の兵庫県姫路)の地頭職に補任されました。

 この吉川家の黎明期を象徴するとも云える「銘為次(狐ヶ崎)」は戦いから約820年たった今でも、重厚な存在感を放っています。秋の恒例展示のたびに、長い時間をかけてご覧になるお客様も少なくはありません。今年は刀身のみで11月26日(日)まで当館にて展示しております。是非多くの皆様にご覧いただきたいと存じます。

 

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